
2025年4月、多くの人々に愛された俳優・山口崇(やまぐち・たかし)さんが、肺がんのため88歳でこの世を去りました。NHKドラマ「天下御免」の平賀源内役や、「クイズタイムショック」の2代目司会者として、知性と温かい人柄でお茶の間を魅了した名優の突然の訃報は、多くのファンに衝撃と悲しみをもたらしました。
この記事では、山口崇さんの死因となった肺がんの詳細や、病気が発覚したきっかけとなった出来事、妻である元女優の平尾桂子さんや、長唄の世界で活躍する息子・山口太郎さん(三代目杵屋巳三郎)、娘さんとの家族の絆、そしてクイズタイムショックの司会者抜擢の理由やその活躍ぶり、当たり役となった平賀源内や「大岡越前」の徳川吉宗など、輝かしい経歴を彩る代表作について詳しく掘り下げます。さらに、実家のある淡路島での少年時代、晩年の病気との向き合い方、そしてネット上に寄せられた数多くの追悼の声まで、山口崇さんに一体何があったのか、そしてどうなったのか、その多才な生涯と遺された功績を包括的にまとめ、徹底解説します。
1. 俳優・山口崇さん逝去の報:2025年4月18日、何があったのか
2025年4月、俳優の山口崇さんが亡くなったという悲しいニュースが日本中を駆け巡りました。ここでは、その訃報の詳細、亡くなられた日時や場所、所属事務所からの公式発表についてお伝えします。多くのファンに惜しまれながらの旅立ちでした。
1-1. 訃報:88歳での旅立ち
2025年4月21日、所属事務所である「オフィス天童」が公式サイトを通じて、俳優の山口崇さんが亡くなったことを公表しました。山口さんは、長年にわたり日本のテレビドラマや映画、舞台で活躍し、また人気クイズ番組の司会者としても親しまれていました。その知的な雰囲気と温厚な人柄で、幅広い世代から支持を集めていた名優の訃報に、多くの人々が悲しみに暮れました。
享年88歳。日本のエンターテインメント界、特にテレビの黄金期を支えた大きな星が、また一つ静かにその輝きを終えました。
1-2. いつ、どこで:2025年4月18日、都内高齢者施設にて
山口崇さんが亡くなられたのは、2025年4月18日(金)午後3時36分です。場所は、入居していた東京都内の高齢者施設でした。詳細は後述しますが、亡くなる直前までご家族に見守られ、安らかに穏やかに旅立たれたと伝えられています。
春の穏やかな日差しの中、多くの思い出と功績を残して、山口さんは静かに息を引き取られました。
1-3. 所属事務所からの公式発表内容
所属事務所「オフィス天童」は、公式サイトで以下のように発表しました(要旨)。
- 俳優 山口崇(本名:山口 岑芳)が、かねてより病気療養中のところ、2025年4月18日午後3時36分、肺がんのため永眠いたしました(享年88)。
- 生前のご厚誼を深謝し、謹んでご報告申し上げます。
- 葬儀は近親者にて執り行います。
事務所からは、生前の応援に対する感謝と共に、故人を偲ぶ言葉が述べられました。突然の知らせに、関係者やファンからは驚きと追悼の声が相次ぎました。
1-4. 葬儀・告別式の日程と喪主(息子・山口太郎さん)
報道によると、通夜及び告別式は以下の日程で執り行われる予定です。
- 通夜:2025年4月25日(木)午後6時より
- 告別式:2025年4月26日(金)午前9時30分より
- 場所:代々幡斎場(東京都渋谷区西原2-42-1)
喪主は、長男である山口太郎(やまぐち・たろう)さんが務められます。太郎さんは、長唄唄方・三代目杵屋巳三郎としても知られており、父である崇さんと同じく、日本の伝統芸能の世界で活躍されています。
葬儀は、故人の遺志や家族の意向により、近親者を中心に静かに営まれるものと思われます。
2. 山口崇さんの死因は肺がん:病気の詳細と発見のきっかけは?
山口崇さんの死因は肺がんと発表されました。この病気はどのようにして発見され、山口さんはどのように向き合われたのでしょうか。病気の詳細と、発見に至るまでの経緯、そして肺がんという病気について、医師監修の記事も参考にしながら解説します。
2-1. 死因の公式発表:肺がんのため逝去
所属事務所からの発表通り、山口崇さんの直接の死因は「肺がん」でした。近年、日本人の死因の上位を占めるがんの中でも、肺がんは罹患率・死亡率ともに高い病気として知られています。88歳というご高齢ではありましたが、最後まで俳優としての活動意欲を見せていただけに、病との闘いが壮絶であったことがうかがえます。
2-2. 発見のきっかけ:「べらぼう」ガイドインタビューでの声のかすれ
肺がんが発見されたきっかけは、非常に印象的なものでした。それは、2024年10月に行われた、NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」のドラマ・ガイドのためのインタビュー収録時だったと報じられています。
このインタビューは、山口さんにとって「最後の仕事」となりました。かつて自身が演じ、当たり役となった「平賀源内」が「べらぼう」にも登場することから、源内役について語る機会が設けられたのです。
その際、インタビューに応じる山口さんの声がかすれていたことに周囲が気づき、病院での検査を勧めたところ、肺がんが診断されたといいます。長年、俳優として、そして司会者として、その明瞭な声で多くの人々を魅了してきた山口さんにとって、「声のかすれ」が病のサインだったというのは、運命の皮肉を感じさせます。
2-3. 最後の仕事が病を知る契機に:2024年10月の取材
2024年10月に行われた「べらぼう」のガイドブックインタビューは、結果的に山口さんにとって公の場での最後の仕事となりました。このインタビュー記事は、山口さんのファンにとって貴重な遺稿とも言えるでしょう。
インタビューでは、自身が主演した「天下御免」の思い出や、平賀源内という役柄への思い、そして当時のテレビドラマ制作の裏話などが語られたと推測されます。特に、「天下御免」の第1回と最終回のビデオを自ら録画してNHKに寄贈したというエピソードにも触れていたとされ、作品への深い愛情がうかがえます。
このインタビューがなければ、肺がんの発見がさらに遅れていた可能性も考えられます。自身を象徴する役柄「平賀源内」にまつわる仕事が、病を知るきっかけとなったことは、彼の俳優人生を締めくくる上で、忘れられない出来事となりました。
2-4. 診断後の治療と療養生活(報道内容より)
肺がんの診断を受けた後、山口さんは治療と療養に専念されたとのことです。具体的な治療内容(手術、放射線治療、抗がん剤治療など)については公表されていません。一部報道では、当初は手術や入院はせず、自宅での治療を選択していたとも伝えられていますが、詳細は不明です。
ご高齢であったことも考慮し、積極的な治療よりもQOL(生活の質)を重視する方針だった可能性も考えられます。俳優としての活動を休止し、静かに病と向き合う日々を送られていたのでしょう。
2-5. 最期の様子:「まだまだ生きる」と語った5日前から容態急変
関係者の話によると、山口さんは亡くなる5日前までは比較的元気に過ごされており、「まだまだ生きるよ」と周囲に語るなど、生きる意欲を見せていたといいます。この言葉からは、最期まで前向きな気持ちを失わなかった山口さんの人柄が偲ばれます。
しかし、その後、容態が直前に突然悪化。最期は、入居していた高齢者施設にて、長男の山口太郎さんに見守られながら、安らかに、そして穏やかに旅立たれたとのことです。苦痛が少なく、穏やかな最期であったことを願わずにはいられません。
2-6. 【参考】肺がんとはどんな病気?(医師監修記事より)
ここで、山口崇さんの命を奪った肺がんについて、提供された医師監修の記事(メディカルドック)を参考に、一般的な情報をまとめます。あくまで一般的な内容であり、山口さん個人の病状を示すものではありません。
2-6-1. 肺がんの種類(非小細胞/小細胞)
肺がんは、がん細胞の組織タイプによって、主に「非小細胞肺がん」と「小細胞肺がん」の2つに大別されます。どちらのタイプか、さらに詳細な組織型やがんの進行度(ステージ)によって、治療方針が大きく異なります。
2-6-2. 初期症状は現れにくい?
肺がんの初期段階では、自覚症状がほとんど現れないことが多いのが特徴です。咳や痰といった症状が出た場合、すでにある程度進行している可能性も考えられます。健康診断などでの胸部X線検査やCT検査で偶然発見されるケースも少なくありません。
山口さんの場合も、「声のかすれ」という症状が出るまで、ご自身で病気を自覚されていなかった可能性が考えられます。
2-6-3. 進行した場合の症状(息苦しさ、むくみ、痛み、脳転移症状など)
肺がんが進行すると、様々な症状が現れることがあります。以下はその例です。
- 咳、痰、血痰、息切れ:がんが肺や気管支で大きくなることで生じます。
- 胸の痛み:がんが胸壁(肋骨など)に広がると痛みを伴うことがあります。
- 息苦しさ:胸腔(肺と胸壁の間)に水が溜まる(胸水)と、肺が圧迫されて息苦しくなります。
- 首や顔のむくみ、息切れ:がんや腫れたリンパ節が心臓へ戻る太い血管(上大静脈)を圧迫することで起こります(上大静脈症候群)。
- 骨の痛み:がんが骨に転移すると、その部位に痛みが生じます(骨転移)。背骨への転移は麻痺のリスクもあります。
- 頭痛、吐き気、めまい、麻痺、言語障害、けいれん:がんが脳に転移した場合に起こりえます(脳転移)。
- 食欲不振、意識障害など:がんの影響で血液中のカルシウム値が高くなること(高カルシウム血症)などで起こる場合があります。
これらの症状は末期に現れる可能性のあるものですが、すべての人に起こるわけではありません。治療によって症状が和らぐこともあります。
2-6-4. 肺がんになりやすい人の特徴(喫煙、アスベスト等)
肺がんの最大の危険因子は「喫煙」です。喫煙者は非喫煙者に比べて肺がんになるリスクが格段に高まります。また、本人が吸わなくても、周囲の人のタバコの煙を吸い込む「受動喫煙(副流煙)」もリスクを高めます。
その他、アスベスト(石綿)への曝露、大気汚染(排気ガスなど)、特定の肺疾患(特発性肺線維症など)の既往歴なども、肺がんのリスク要因とされています。山口さんの喫煙歴などについては情報がありませんが、これらの要因が複合的に関与することもあります。
3. 山口崇さんとは誰?何者?その輝かしい経歴とプロフィール
「平賀源内」「タイムショックの司会者」として広く知られる山口崇さんですが、その俳優としてのキャリアは長く、多彩な顔を持っていました。ここでは、山口崇さんの基本的なプロフィールから、俳優としての歩み、そして文化人としての一面まで、その人物像に迫ります。
3-1. 基本プロフィール(本名、生年月日、没年月日、享年など)
まずは、山口崇さんの基本的なプロフィールをまとめます。
項目 | 情報 |
---|---|
本名 | 山口 岑芳(やまぐち たかよし) |
芸名 | 山口 崇(やまぐち たかし) |
生年月日 | 1936年(昭和11年)11月17日 |
没年月日 | 2025年(令和7年)4月18日 |
享年 | 88歳 |
出身地 | 兵庫県三原郡阿那賀村(のちの西淡町、現:南あわじ市) |
血液型 | B型 |
身長 | 175cm |
職業 | 俳優、テレビ司会者、長唄三味線奏者、民話研究家 |
最終所属事務所 | オフィス天童 |
3-2. 出身地と実家:兵庫県淡路島(南あわじ市)での少年時代
山口崇さんの出身地は、兵庫県の淡路島、現在の南あわじ市にあたる地域です。瀬戸内海に浮かぶ自然豊かな島で、高校入学までの多感な少年時代を過ごしました。この淡路島での経験が、後の彼の穏やかな人柄や、日本の伝統文化、特に民話への深い関心に繋がったのかもしれません。
実家に関する詳細な情報(家族構成や家業など)は少ないですが、彼が語る故郷への思いは、温かいものだったと想像されます。
3-3. 学歴:都立戸山高校から早稲田大学(中退)へ
高校進学を機に上京し、東京都立戸山高等学校に入学しました。戸山高校は都内有数の進学校として知られています。高校卒業後は、早稲田大学教育学部英文科に進学しました。
大学時代には、同学部の学生自治会委員長を務めるなど、リーダーシップを発揮していた一面もあったようです。しかし、大学は中退しており、その理由は定かではありませんが、演劇への道に進む決意が固まった時期だったのかもしれません。
3-4. 俳優への道:NHK俳優養成所から劇団活動(俳優小劇場、芸能座)
大学中退後、山口さんは本格的に俳優の道を歩み始めます。まず、NHK俳優養成所で演技の基礎を学びました。その後、劇団三十人会を経て、1960年(昭和35年)には「劇団俳優小劇場」の旗揚げメンバーとして参加しました。この劇団は1971年まで活動を続けました。
さらに、1974年(昭和49年)には、小沢昭一さん、加藤武さん、山谷初男さんといった実力派俳優たちと共に、新たな演劇グループ「芸能座」を結成します。芸能座は1980年(昭和55年)に解散するまで、意欲的な舞台活動を展開しました。これらの劇団活動を通じて、山口さんは俳優としての実力を磨き、演劇界での地位を確立していきました。
また、石立鉄男さん、左時枝さん、小山田宗徳さんらとは「ゲバラ財団」という演劇グループを結成し、渋谷ジァン・ジァンで無料公演を行うなど、実験的な活動にも取り組んでいました。
3-5. 知的な魅力と演技力:幅広い役柄で活躍
山口崇さんは、その端正な顔立ちと知的な雰囲気、そして確かな演技力で、デビュー当初から注目を集めました。時代劇から現代劇、シリアスな役からコミカルな役まで、幅広い役柄をこなせる実力派俳優として、数多くの映画やテレビドラマに出演しました。
特に1970年代前後には主役級の役を多く演じ、その人気を不動のものとしました。彼の演技は、派手さはないものの、役柄の内面を深く表現する、滋味あふれるものとして高く評価されていました。
4. 代表作:山口崇さんを語る上で欠かせない作品たち
山口崇さんは、60年以上にわたる長い俳優キャリアの中で、数多くの作品に出演されました。その中でも特に、彼の名を広く知らしめ、多くの人々の記憶に深く刻まれた代表作があります。ここでは、山口さんの俳優人生を彩った重要な作品を振り返ります。
4-1. 不滅の当たり役:「天下御免」の平賀源内 (1971-1972)
山口崇さんのキャリアを語る上で、絶対に外せないのがNHK総合で放送されたドラマ「天下御免」の主人公・平賀源内役です。1971年10月から1972年9月まで放送されたこの作品は、山口さんにとってまさに「当たり役」となり、彼の俳優としての地位を不動のものとしました。
4-1-1. なぜ当たり役と言われたのか?その魅力とは
平賀源内は、江戸時代中期に活躍した本草学者、蘭学者、医者、作家、発明家、画家など、多方面で才能を発揮した実在の人物です。「天下御免」は、この奇才・平賀源内の破天荒な生き様を、ユーモアと風刺を交えて描いた作品でした。
山口さんが演じた源内は、知的好奇心にあふれ、権威に屈せず、自由奔放でありながら、どこか人間味のある愛すべきキャラクターとして描かれました。山口さん自身の持つ知的な雰囲気と、役柄の持つ洒脱さ、反骨精神が見事に融合し、多くの視聴者を魅了しました。「平賀源内といえば山口崇」と言われるほど、彼のイメージはこの役と強く結びつき、国民的な人気を獲得しました。
ネット上のコメントでも、「私にとって平賀源内といえば山口崇さんでした」「天下御免が面白くて衝撃的だった」といった声が多く見られ、放送から50年以上経った今でも、その印象が色褪せていないことがわかります。
4-1-2. 作品への影響力:三谷幸喜氏ら後進への刺激
「天下御免」とその主演である山口崇さんの演技は、当時のテレビ界に新鮮な風を吹き込んだだけでなく、後世のクリエイターにも影響を与えたと言われています。特に、脚本家・演出家の三谷幸喜さんは、山口さんの平賀源内に影響を受けた一人として知られています。
山口さんの軽妙でありながら深みのある演技、そして作品全体が持つ自由な発想やユーモアのセンスは、後の世代の演劇人や映像作家たちにとって、大きな刺激となったのでしょう。山口さんの平賀源内は、単なる人気キャラクターに留まらず、日本のエンターテインメント史における一つの重要な達成として記憶されています。
4-1-3. 「べらぼう」との奇妙な縁
前述の通り、山口さんが肺がんを発見するきっかけとなったのが、2025年放送のNHK大河ドラマ「べらぼう」のガイドブックインタビューでした。「べらぼう」では、安田顕さんが平賀源内役を演じています。
そして、奇しくも山口さんの訃報が報じられた直後の2025年4月20日には、「べらぼう」第16話で安田さん演じる平賀源内の壮絶な最期が描かれました。自身を象徴する役柄が、病の発見と、そして死の直後の放送内容に重なるという偶然は、多くの視聴者に深い感慨を与えました。
4-2. 国民的時代劇:「大岡越前」の徳川吉宗 (1970-2006)
山口崇さんのもう一つの代表的な役柄が、TBS系の長寿時代劇「大岡越前」で演じた八代将軍・徳川吉宗です。1970年の第1部から、シリーズを通して(途中降板や代役を挟みつつも)長年にわたり吉宗役を務め、お茶の間に親しまれました。
4-2-1. 加藤剛さんとの名コンビ
「大岡越前」は、名優・加藤剛さんが演じる主人公・大岡忠相(越前守)が、江戸町奉行として難事件を解決していく物語です。山口さん演じる吉宗は、忠相の良き理解者であり、時に厳しく、時に温かく彼を見守る将軍として描かれました。
加藤剛さんの実直で知性的な忠相と、山口さんの鷹揚で人間味あふれる吉宗のコンビネーションは絶妙で、多くの視聴者に愛されました。ネット上のコメントでも、「大岡越前の徳川吉宗役が印象に残っている」「加藤剛さんとのコンビが好きだった」という声が多数寄せられています。
興味深いことに、1976年のNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」では、加藤剛さんが平将門役、山口崇さんが将門のライバルである平貞盛役で共演しており、「大岡越前」とは対照的な役柄での共演も話題となりました。
4-2-2. 長年にわたり演じた吉宗像
山口さんが演じた吉宗は、単なる威厳ある将軍ではなく、江戸市中にお忍びで現れ、庶民の暮らしに触れたり、忠相と共に事件解決の糸口を探ったりするなど、親しみやすい一面も持っていました。その豪放磊落でありながら、民を思う心優しい将軍像は、山口さんの温かい人柄と重なり、歴代の吉宗役の中でも特に人気が高いものの一つとなりました。
「吉宗といえば山口崇さん」というイメージを持つファンも多く、平賀源内と並ぶ、彼の重要な当たり役と言えるでしょう。
4-3. その他の主な出演作(ドラマ・映画)
山口崇さんは、「天下御免」「大岡越前」以外にも、数多くの印象的な作品に出演しています。ここではその一部をご紹介します。
- 「肝っ玉かあさん」シリーズ(TBS, 1968-1971): 京塚昌子さん主演の人気ホームドラマ。山口さんは重要な役どころで出演し、広く顔を知られるきっかけの一つとなりました。
- 「風と雲と虹と」(NHK大河ドラマ, 1976): 平貞盛役。主演の加藤剛さん(平将門役)と火花を散らすライバル役を熱演しました。
- 「御宿かわせみ」シリーズ(NHK, 1980-1983, 2013): 真野響子さん主演の人気時代劇。主人公るいの恋人で、後に夫となる同心・畝源三郎役を好演。実直で朴訥ながらも心優しい源三郎は、女性ファンを中心に人気を集めました。「畝源三郎役が好きだった」というネット上のコメントも見られます。
- 「熱中時代」(日本テレビ, 1978): 水谷豊さん主演の学園ドラマ。山口さんは、主人公の同僚である中学校の教師・八代徹役を演じました。インテリで穏やかながら、生徒思いの教師役は、彼のイメージにぴったりでした。
- 映画「記憶にございません!」(2019): 三谷幸喜監督作品。記憶喪失になった総理大臣(中井貴一さん)の恩師である元教師・柳友一郎役。これが最後の映画出演となりました。「久しぶりに拝見して嬉しかった」というコメントもありました。
この他にも、「柳生十兵衛」(フジテレビ, 1970)での主演や、「水戸黄門」(TBS)へのゲスト出演など、その活躍は多岐にわたります。また、アニメ映画「三国志」シリーズでは、諸葛亮孔明の声優を務めるなど、声の仕事でもその才能を発揮しました。
5. クイズタイムショック2代目司会者としての顔:いつから?なぜ抜擢?
山口崇さんといえば、俳優業と並んで「クイズタイムショック」の2代目司会者としての顔を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。俳優として活躍する一方で、なぜ人気クイズ番組の司会を務めることになったのか、その経緯や功績を探ります。
5-1. 田宮二郎さんの後任として抜擢 (1978年)
「クイズタイムショック」は、1969年からテレビ朝日系列で放送されていた人気クイズ番組です。初代司会者は、俳優の田宮二郎さんが務め、その独特の緊張感あふれる進行で番組を成功に導きました。
しかし、1978年(昭和53年)、田宮二郎さんが猟銃自殺するという衝撃的な事件が発生し、番組は存続の危機に立たされます。この困難な状況の中で、田宮さんの後任として白羽の矢が立ったのが、当時すでに俳優として確固たる地位を築いていた山口崇さんでした。
なぜ山口さんが抜擢されたのか、その明確な理由は公表されていませんが、俳優としての知名度と人気、そして知性的で誠実なイメージが、番組のイメージを刷新し、かつ維持する上で適任と判断されたと考えられます。田宮さんの悲劇的な降板の後だけに、後任選びは非常に慎重に行われたはずです。
5-2. いつからいつまで?:1978年から最終回(1986年)まで
山口崇さんは、1978年10月から「クイズタイムショック」の2代目司会者として登場しました。初代・田宮さんのイメージが強かった番組を引き継ぐプレッシャーは大きかったと思われますが、山口さんは見事にその大役を果たします。
そして、番組がレギュラー放送を終了する1986年(昭和61年)3月27日まで、約7年半にわたって司会を務め上げました。この期間は、番組の安定期とも言え、山口さんの司会によって番組の人気は確固たるものとなりました。
5-3. 山口崇さんならではの司会スタイルと評判
山口さんの司会は、初代・田宮さんの持つシャープな緊張感とは異なり、穏やかで温かみのある進行が特徴でした。出場者に対して優しく語りかけ、ユーモアを交えながら場を和ませるスタイルは、視聴者に安心感を与えました。
「タイム・イズ・マネー!」の決めゼリフはそのままに、山口さんならではの「優しいタイムショック」として、新たなファン層を獲得しました。ネット上のコメントでも、「タイムショックといえば山口さんだった」「優しい司会ぶりが好きだった」「軽妙な語り口と温かい笑顔が心に残っている」といった声が多く、彼の司会者としての姿が多くの人々の記憶に深く刻まれていることがわかります。
また、自身も800回記念放送では解答者として出場し、見事トップ賞を獲得するなど、クイズに対する造詣の深さも見せていました。
5-4. 俳優と司会者の両立:多才ぶりを発揮
俳優として多忙な日々を送る傍ら、人気クイズ番組の司会者としても長年活躍したことは、山口崇さんの多才ぶりを示すものです。シリアスな演技で魅せる俳優としての顔と、お茶の間に親しまれる司会者としての顔、その両方を高いレベルで両立させていました。
これは、彼の知性、コミュニケーション能力、そして何よりも人間的な魅力があったからこそ成し得たことでしょう。「クイズタイムショック」の司会は、彼のキャリアにおける重要な柱の一つであり、俳優・山口崇とはまた異なる魅力を多くの人々に伝えました。
6. 山口崇さんの家族:妻・平尾桂子さんと息子・娘との長唄への情熱
公の場ではあまり私生活について語ることのなかった山口崇さんですが、ご家族との絆、特に日本の伝統芸能である「長唄」への情熱は、彼の人生において重要な位置を占めていました。ここでは、妻である元女優の平尾桂子さん、そして長唄の世界で活躍する息子さん、娘さんについて詳しく見ていきます。
6-1. 妻・平尾桂子さんとはどんな人?元女優で長唄・杵屋巳貴
山口崇さんの妻は、平尾桂子(ひらお・けいこ)さんです。桂子さんもかつては女優として活動されていました。二人は1965年(昭和40年)に結婚しました。
6-1-1. 結婚と馴れ初め(1965年)
二人の馴れ初めに関する詳細な情報は少ないですが、同じ芸能界で活動する中で出会い、結ばれたと考えられます。結婚式は1965年に麻布プリンスホテルで行われ、当時の報道によると、会費制(一人千円)で、多くの費用を協賛で賄ったというユニークなエピソードも残っています。
山口さんが88歳で亡くなるまで連れ添った桂子夫人。長い年月を共に歩み、夫の俳優活動を支え続けた存在でした。
6-1-2. 夫婦で嗜んだ長唄の世界
特筆すべきは、桂子夫人が結婚・育児を経てから長唄の世界に入り、「杵屋 巳貴(きねや みき)」という名取名を持つに至ったことです。夫である崇さんも長唄に深く傾倒していたことから、夫婦共通の趣味、そして芸術活動として、共に長唄の道を歩んでいたことがうかがえます。
2016年には、夫婦でテレビ番組「徹子の部屋」に出演し、長唄について語り合う姿も見られました。共通の芸術への情熱が、夫婦の絆をより深いものにしていたのかもしれません。
6-2. 長男・山口太郎さん(三代目 杵屋巳三郎):唄方として活躍
長男の山口太郎(やまぐち・たろう)さんは、1967年10月2日生まれ。父である崇さんの葬儀では喪主を務められました。太郎さんは、長唄の唄方(うたかた:唄を担当する専門家)として、第一線で活躍されています。
襲名後の名前は「三代目 杵屋 巳三郎(さんだいめ きねや みさぶろう)」、旧名は杵屋巳津也(きねや みつや)です。東京芸術大学音楽学部邦楽科を卒業後、父と同じく人間国宝である七代目杵屋巳太郎氏(現・杵屋浄貢氏)や、東音福田克也氏に師事し、本格的に長唄の道に進みました。現在も数多くの舞台や演奏会で活躍されています。
6-3. 長女・山口由紀さん(杵屋巳織):三味線方として活躍
長女の山口由紀(やまぐち・ゆき)さんも、兄と同じく長唄の世界で活躍されています。由紀さんは三味線方(しゃみせんかた:三味線演奏を担当する専門家)で、「杵屋 巳織(きねや みおり)」という名取名を持っています。
兄妹揃って長唄の道に進み、それぞれ専門分野で活躍していることは、家庭環境がいかに伝統芸能に深く根ざしていたかを物語っています。
6-4. 家族演奏会:家庭と芸術の融合
山口家では、年に一度は家族で演奏会を開いていたと伝えられています。父(三味線)、母(唄または三味線)、息子(唄)、娘(三味線)が一堂に会し、長唄を演奏する。これは、家族の絆を確認し、共に芸術を高め合う、山口家ならではの大切な時間だったのでしょう。
家庭生活と芸術活動がごく自然に結びついていた山口家の様子がうかがえます。
6-5. 山口崇さん自身も長唄名取「杵屋巳楓」
妻や子供たちだけでなく、山口崇さん自身も長唄に深く傾倒していました。長唄三味線方として「杵屋 巳楓(きねや みふう)」という名取名を持っていました。師事したのは、息子や娘と同じく、人間国宝である七代目杵屋巳太郎氏です。
多忙な俳優業や司会業の傍ら、本格的に長唄の稽古に励み、名取となるほどの腕前を持っていたことは、彼の芸事に対する真摯な姿勢と、日本の伝統文化への深い愛情を示しています。ドラマや舞台で、三味線や琴、鼓などの演奏を披露することもあったといいます。
6-6. 民話研究家としてのライフワーク
山口崇さんの文化的な活動は、長唄だけにとどまりません。長年にわたり「民話研究家」としても活動し、これをライフワークとしていました。FM東京で放送されたラジオ番組「音とたかしと昔話」(1973年-1977年)では、自ら民話の語り手を務め、その功績でギャラクシー賞を受賞しています。
出身地である淡路島での経験が影響しているのかもしれませんが、日本各地に伝わる民話の収集や研究に情熱を注ぎ、その魅力を伝える活動を続けていました。俳優、司会者、長唄奏者、そして民話研究家。山口崇さんは、まさに多才な文化人でした。
7. 山口崇さんの人柄が偲ばれるエピソード
多くの共演者や視聴者から愛された山口崇さん。その温厚で知的なイメージ通り、誠実で優しい人柄だったと伝えられています。ここでは、彼の人間性が垣間見えるエピソードをいくつかご紹介します。
7-1. 知的で穏やかな語り口
テレビ画面を通して伝わる山口さんの語り口は、常に穏やかで理知的でした。早稲田大学出身という知性に裏打ちされた的確な言葉選びと、相手を尊重する丁寧な態度は、多くの人に好感を与えました。「クイズタイムショック」での出場者への優しい声かけや、「徹子の部屋」などで見せる落ち着いた会話ぶりからも、その人柄がうかがえます。
ネット上のコメントでも「聡明という言葉がぴったり」「品が良く美しい」「語り口がソフトで堂々としていた」といった、彼の知性や品性を称賛する声が多く見られました。
7-2. ゲバラ財団での活動(石立鉄男さんらと)
前述の通り、山口さんは石立鉄男さん、左時枝さん、小山田宗徳さんらと共に「ゲバラ財団」という演劇グループを結成し、渋谷の小劇場ジァン・ジァンで無料公演を行っていました。これは商業的な成功を目指すものではなく、純粋に演劇表現を追求する活動であったと考えられます。
仲間たちと協力し、実験的な試みに挑戦する姿勢からは、彼の演劇への情熱と、仲間を大切にする一面がうかがえます。
7-3. 「天下御免」のビデオ寄贈エピソード
主演作「天下御免」の第1回と最終回の放送を、当時まだ高価だったビデオデッキで自ら録画し、後にNHKに寄贈したというエピソードがあります。これは、自身の代表作に対する深い愛着と、貴重な映像資料を後世に残そうとする責任感の表れと言えるでしょう。
このエピソードは、最後の仕事となった「べらぼう」ガイドブックのインタビューでも語られており、彼の作品への思い入れの強さを物語っています。
7-4. レストラン経営の過去?(ネット上のコメントより)
ネット上の追悼コメントの中には、「偶然入ったレストランに山口崇さんの姿があり、店員さんに聞いたら『ここのオーナーです』と言われて驚いた」という体験談を寄せている方がいました。この情報の真偽は定かではありませんが、もし事実であれば、俳優業以外にも事業を手掛けるなど、意外な一面を持っていた可能性も示唆されます。真偽はともかく、ファンにとっては忘れられない思い出となっているようです。
8. ネット上の反応:山口崇さんを悼む声まとめ
山口崇さんの訃報に際し、インターネット上では、ニュースサイトのコメント欄やSNSなどを中心に、数多くの追悼の声が寄せられました。彼の死を悼み、その功績や人柄を偲ぶコメントから、山口さんがいかに多くの人々に愛され、記憶されていたかがわかります。ここでは、寄せられた主な反応をまとめ、解説します。
8-1. 「平賀源内」「吉宗」役への深い思い入れ
やはり最も多く見られたのは、彼の代表作である「天下御免」の平賀源内役と、「大岡越前」の徳川吉宗役への言及でした。
- 「私の中では平賀源内といえば山口崇さんでした。天下御免、面白かった」
- 「大岡越前の吉宗役が一番印象に残っています。加藤剛さんとのコンビは最高でした」
- 「吉宗役の豪放磊落さと優しさのバランスが絶妙だった」
- 「子供の頃、天下御免を見て平賀源内を知りました」
これらのコメントからは、山口さんが演じたキャラクターが、多くの視聴者にとってその歴史上の人物のイメージそのものを形作るほど、強い印象を残していたことがわかります。特に、これらの役柄をリアルタイムで見ていた世代にとっては、青春時代の思い出と重なり、深い感慨があるようです。
8-2. 「タイムショック」司会者としての記憶
平賀源内、吉宗と並んで多く言及されたのが、「クイズタイムショック」の2代目司会者としての顔です。
- 「タイムショックといえば、初代の田宮二郎さんより山口さんの印象が強い」
- 「山口さんの優しい司会ぶりが好きでした。温かい笑顔が忘れられない」
- 「軽妙な語り口で番組を盛り上げていた」
- 「子供の頃、よく見ていました。懐かしいです」
田宮二郎さんの後任という難しい役割を見事に果たし、番組に新たな魅力を加えた山口さんの功績を称える声が多数寄せられました。俳優としての顔とは別に、司会者としての山口さんを記憶しているファンも非常に多いことがうかがえます。
8-3. 知的で温かい人柄を偲ぶ声
山口さんの人柄に対するコメントも多く見られました。
- 「知的で品があり、穏やかな雰囲気が素敵でした」
- 「誠実さが伝わってくる俳優さんだった」
- 「声が素敵で、語り口がソフトだった」
- 「晩年の写真を見ても、笑顔が変わらず素敵だった」
画面を通して伝わる知性、品格、温かさといったイメージが、そのまま多くの視聴者に受け止められていたようです。彼の人間的な魅力が、長年にわたって支持され続けた理由の一つであることがわかります。
8-4. 昭和の名優の逝去を惜しむ声
山口さんの訃報に接し、昭和という時代を彩った名優がまた一人亡くなったことへの寂しさを吐露する声も多くありました。
- 「昭和の名優がまた一人…寂しい限りです」
- 「子供の頃に親しんだ俳優さんが亡くなるのは、やはり寂しいですね」
- 「昭和は遠くなりにけり、と感じます」
山口さんの活躍は、日本のテレビや映画が大きな発展を遂げた時代と重なります。その時代を知る人々にとって、彼の死は、一つの時代の終わりを感じさせる出来事として受け止められているようです。
8-5. 「べらぼう」との偶然の一致に驚く声
肺がん発見のきっかけとなった「べらぼう」ガイドインタビューと、訃報直後に放送された「べらぼう」での平賀源内の最期のシーン。この偶然の一致に驚きや運命的なものを感じるコメントも見られました。
- 「最後の仕事が源内関連で、病気が見つかるなんて…」
- 「亡くなった直後にドラマで源内の最期が描かれるとは、なんという偶然」
- 「まるで天命を感じるような偶然」
この出来事は、山口崇さんと平賀源内という役柄との深い結びつきを、改めて人々に印象付けることとなりました。
9. まとめ:山口崇さんが遺したものとは?死因から家族、功績まで
俳優、司会者、そして長唄奏者、民話研究家として、多岐にわたる分野で豊かな才能を発揮し、多くの人々に愛された山口崇さん。その88年の生涯は、日本のエンターテインメント史に確かな足跡を残しました。最後に、山口崇さんが私たちに遺したものを改めて振り返ります。
9-1. 輝かしい功績の再確認(俳優、司会者、長唄)
山口崇さんの功績は多岐にわたります。
- 俳優として:「天下御免」の平賀源内、「大岡越前」の徳川吉宗といった当たり役で国民的な人気を獲得。知性と人間味あふれる演技で、時代劇から現代劇まで幅広い役柄を演じ分け、数多くの作品で存在感を示しました。
- 司会者として:「クイズタイムショック」の2代目司会者を長年務め、穏やかで親しみやすいキャラクターでお茶の間に愛されました。俳優とは異なる分野でも成功を収め、その多才ぶりを発揮しました。
- 文化人として:長唄三味線方「杵屋巳楓」として名取となり、家族と共に伝統芸能の継承に尽力。また、民話研究家としても活動し、日本の文化への深い造詣を示しました。
9-2. 死因(肺がん)と発見経緯
死因は肺がんでした。88歳という高齢での逝去でしたが、最後の仕事となった「べらぼう」ガイドインタビューでの声のかすれが、病発見のきっかけとなるという、俳優人生を象徴するような出来事がありました。最期は家族に見守られ、穏やかに旅立たれたと伝えられています。
9-3. 家族との絆と文化の継承
妻・平尾桂子さん、長男・山口太郎さん(三代目杵屋巳三郎)、長女・山口由紀さん(杵屋巳織)と共に、長唄という日本の伝統芸能を愛し、家族で演奏会を開くなど、芸術を通じた深い絆で結ばれていました。その情熱は子供たちへと見事に受け継がれています。
9-4. 日本のエンターテインメント界への貢献
山口崇さんは、テレビが娯楽の中心であった時代から活躍し、その確かな演技力と幅広い活動で、日本のエンターテインメント界の発展に大きく貢献しました。彼の演じた役柄や司会ぶりは、多くの人々の記憶に残り、後進のクリエイターにも影響を与えました。
9-5. 色褪せることのない記憶と感謝
山口崇さんが遺した作品、そしてその温かな人柄は、これからも多くの人々の心の中で生き続けるでしょう。平賀源内の快活さ、徳川吉宗の包容力、タイムショックでの優しい笑顔。それらは、色褪せることのない、私たちにとっての大切な記憶です。
長年にわたり、私たちに多くの感動と楽しみを与えてくれた山口崇さんに、心からの感謝と哀悼の意を表します。安らかにお眠りください。
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